北条滅亡に見る組織の遺し方
昨晩のNHK大河ドラマからいよいよ北条滅亡への道が描かれます。
北条氏政は何故に失敗したのか私なりに考察します。
・関東の覇者という驕りが狂わせた。
先代の後北条氏三代目の氏康の頃は、周辺に今川義元、武田信玄、上杉謙信という戦国の雄が割拠していて互いが互いを牽制しあっていた。
しかし、今川義元が討たれ、武田信玄が亡くなり、上杉謙信がいなくなったことでパワーバランスは崩れた。
パワーの空白に乗じて関東を瞬く間に支配下に置いた北条は240万石の大大名になった。
(因みに、江戸開幕後の徳川直轄領でも400万石です)
一大名としてはいかに巨大か分かります。
・天下に知られた難攻不落の小田原城と安定した治世が判断を狂わせた。
小田原城は後の江戸城築城の参考となる総構えの難攻不落の名城。
(江戸城は4里四方(約16㎞四方の総構えと言われています)
そして、氏康以降の小田原城下の治世は安定していたと言われます。
そうであれば、いざとなれば一致団結して戦えば勝てると踏んでもおかしくない。
また、西国大名の実力を過小評価していた可能性もある。
家康は、織田信長の同盟でしたから、西国大名のことも知っていたでしょう。
・参謀の諫言を聞き捨て、関白を見くびった横柄さが凶と出た。
戦国時代の名代とは単なる使者にあらず、代理人です。
現代の企業で言えば、顧問弁護士のような存在。
その意見を蔑ろにするとなれば、名代の板部岡江雪斎の心が主家から離れていくのは無理もない。
そして、時代を見誤った最大のミスは、関白とはいえど、秀吉を成り上りの自分とは身分が違うものと見下していたことだろう。
所詮は織田信長に拾われた小間使いくらいにしか見ていなかったのだろう。
だから、上杉景勝や徳川家康が秀吉に臣従したことを苦々しく思っていた。
身分の低い者が発する命令になど従えるかってね。
・九州の暴れん坊、島津との違い。
島津四兄弟は猛将揃いで秀吉に従う気はさらさらなかった。
しかし、お家断絶を恐れた主の長男が自ら出家を申し出て島津を守った。
※小田原征伐に限りませんが、時代の変化を察知して、変更されたルールに従うという柔軟性が組織を残す鉄則だと思いました。
歴史は深いですね。
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