真田丸の三成が失敗した理由

大河ドラマの真田丸は栄華を極めた豊臣秀吉が亡くなりましたね。その後の石田三成が失敗した理由を私なりに考えました。
・三成は分不相応に立ち回り過ぎた。
彼は、劇中でも再三にわたり自分は優秀だと宣う。
現代で言えば、優秀な社長室長か現場を知らないMBAといった感じ。
対する五大老の面々は、単なる武将ではなく、広大な領地を治める大大名である。
豊臣というコングロマリットの系列会社の社長を兼務する本部の重役である。
天下人の声を内外にスポークスマンとして出し、天下人手足として動いてきただけの者とは格が違うのに、未だに自分が豊臣秀吉の名代のつもりで振舞っていたのが彼の失敗の最大の原因と思われる。
・秀才三成は時代と人心が読めなかった。
豊臣秀吉は織田信長の遺構を他のボタ式に掠め取ったに過ぎず、当時の戦国大名の慣例からして正式な天下人とは考えられていなかったと思う。
何故なら、源氏以来、武士の最高の誉れは征夷大将軍であり、自らが政務を行うこと。
関白は所詮は官位、天皇の威光下にあるだけだし、臣従した戦国大名のほとんどは秀吉軍に負けた訳ではなかったからだ。
つまり、秀吉が亡くなったなら、武士による武士の為の政権を望むのが自然であろう。
生来の武士ではない三成にはそれが読めなかった。
また、三成は合理主義的過ぎて直接的利益のない事をことごとく嫌がった。
例えば、根回しや宴席、北政所や茶々への情をかけることや、加藤清正、福島正則を見下す態度などだ。
・家康は苦労人だから相手を惹きつけられた。
今川家への人質、織田家への人質、主家の滅亡、ライバル武田家の滅亡、盟友織田信長の横死、ライバル北条の滅亡などなどを目の当たりにして、如何に立ち回れば人望を集めれるかを学んだ。
そして、無茶な戦は三方ヶ原で懲りた。
だから味方作りに奔走した。

※優秀であることと、組織の長としての適性は全く異なるという好事例が石田三成失脚だと考える。
皆様はどう思われますか?
#真田丸
#石田三成
#徳川家康
#適材適所

佐藤憲彦オフィシャルブログ

日本で唯一のナポレオン・ヒル米国財団本部認定トレーナー資格を持つ社会保険労務士の佐藤憲彦 “人と組織のリーダーシップを開放し各々の目的に導く”人事部長のいない会社の為の社外人事部です

0コメント

  • 1000 / 1000